2012年10・11月号


一窯陶工
若林善一さん


金丸に一窯を構えて30年余。
ものづくりへの思い、佐渡の陶芸の未来に
ついて聞きました。





ろくろの面白さに夢中になる

中学一年生の三学期頃、初めて陶芸を
やった。授業じゃなくてクラブ活動みたいな
もんだな。先生のところには手回しのろくろ
があって、あんなんで物が作れるのか!と
思って陶芸に没頭した。
仲間もいたから、学校が終わったら毎日
通った。初めて作ったのは皿っぽいちゅう
かな・・・大したものはできないよ。
ただ、とにかく作るのが面白くてもう夢中に
なったな。


中学を出て陶芸の道へ

おらっちが修業に入った頃は徒弟制度の
最後の方で、入ったら雑用と子守り。
修業中は自分の思う物は絶対に作らせ
ない。本当はやりたくてやりたくて、もう
だちかんなるくらいにやらせなくて、それから
やることが本物なんだと自分でも思う。
十年は我慢せい、という時代で、土の仕事を
やらせてもらえたのは八年くらい経ってから。
雑用の間に親方の仕事を見て、技術は盗ん
で覚える。
今の人はさ、ちっとも教えてもらえないと言う
んだよな。バカヤロー、楽して教えてもらおう
なんて甘いよね。創意工夫してやってみる
意気込みが必要。
修業中は時間があればろくろを使わせて
くれたし、月一回の休みも一所懸命練習した。
親方はそういうのを見とるんだよな。
やめようと思って逃げたことが一回だけある。
ずっと同じことをやっとると、自分のやりたい
ことはこれじゃないんでねぇか、という気持ち
が出てくる。修業は自分のためなんだけどな。
他所へ出て違う物を見てみたいという気持ち
がものすごくあったのんさ。




およそ十年の修業で独立

修業時代は赤焼(無名異焼)を作っていたけれ
ど、当時は相川以外にはその土を売らなかっ
た。だから独立した時は、これまでやったこと
のない焼き物の世界に飛び込んだ。
自分にとってはそれがかえって良かった気が
する。最初から手探りで何も知らずにやるから
本を見たり人の話を聞いたりして自分でやり
ながら覚えた。




不安を抱えながらも目線は高く

作陶の過程で一番すきな瞬間は、土をいじり
ながら完成形を想像している時。
作り手としては、気持ちはいつも最高の、人間
国宝以上の傑作を狙うわけだね、実際のでき
は別として。そうやって目線を高くしていないと
良い物はできてこない。
初めて陶芸に携わった時から数えると四十七
年。作りたい理想の物はあるが、どうしたら
良いかは未だ模索中。
焼き物は、生み手と持ち主で育てるもの。
焼き物には使うからこその良さや楽しみが
あるから、飾っておくのではなくてやっぱり
使ってほしいね。使って壊してもらわにゃ
おいらっち生活できんさ(笑)
仕事をしていて、これで良いのかと不安になる
時がある。うじうじうじうじして、なかなか浮かび
上がれない。今浮かび上がってねぇんだっ
ちゃ(笑)。作品のできをどうのこうの言っても、
一番不安なのはやっぱり生活面。
口にはなかなか出せないんだけどね。
でもこうやって生活に不安を感じていても、
あれ嫌、これ嫌、それはできん、と言うだけ
大したもんだ、俺も(笑)。




継承と未来

親子だからといって技術が伝わるということは
ない。一番伝わるのは、一人をトップとした
プロ集団だと思う。
絵付けのプロ、ろくろのプロというように分業
の形態ができていれば、技術が最高レベルで
残って行く可能性があるわな。
佐渡は新潟県内で一番まとまって陶芸が盛ん。
陶芸をやる土と土地はあるから。
自分が思うに、佐渡で陶芸をやりたいという
人を幅広く受け入れ応援してやれば、佐渡、
ひいては新潟の、陶芸の土壌ができてくる
んでねぇかな。
佐渡を陶芸の産地にしようっちゅうなら、
商品のプロデューサーや売る人がいて、市や
県を挙げて応援しましょうっちゅうなら、全体
として技術的にもある程度のレベルまで行く
んだかもわからん。
注文を取ってくる人、作る人、売る人、応援する
人、というような分業体制を作ってお金を生み
出し、皆が生活できるようにすれば、次の
世代も育てやすい。そうすれば、佐渡の焼き物
はこれからも残っていくと思う。





一窯
新潟県佐渡市金丸381-1
0259-55-3725
不定休

  

佐渡情報

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