鍛冶屋 重松
中楯重俊さん

鍛冶屋重松六代目。
傘寿を越えてなお毎日炎と向き合う。





佐渡唯一の野鍛冶

昔からこの辺りの人は、長男は親がやっ
とった仕事の跡を継ぐ。
俺等の成人した頃はそうだったんだよね。
戦時中は、佐渡に鍛冶屋は大体百人くらい
おった。その内、九十人くらいは農具を
作っていたと思う。あとの十人は刃物。
鍛冶屋という仕事は埃出して体が汚れ
るんで、ま、心はきれいなんだが(笑)、
若い人でやれる人もおらんようになるし、
ホームセンターができてから仕事は少
なくなってきた。
佐渡にも俺一人しかおらんようになった。
鍛冶屋は前にも二、三軒あったし、
畑野でも佐和田にもあったんですけどね。
年とってきたら後継者がおらんように
なってしもた。


一人前になるまで

重松は俺で六代目。
昔は船を造る船釘、ああいう物を作っと
ったの。親父が会津の刃物を作っとった
鍛冶屋へ修行に行った。
俺も会津へ行きました。
帰ってきてからはずっと親父と一緒。
一番初めに作ったのはね、鎌の目釘。
簡単なように叩いとるようだけどね、
叩いて真四角に伸ばせるようにならんと、
鍛冶屋は一人前になれんというのですよ。
叩き方が悪いと割れてしまう。
これが大変なんだよ。
でも一番難しいのが焼き入れ。
やっぱり何にでも言うことで、
仕事は見て覚え、って言うんでね。
だから、仕事からあがってご飯食べる
時になると普通の親子だけど、仕事
においてはそりゃきついもんだ。
俺は額に傷があるんですけどね。
昔向こう鎚って、親父の相方をやってて、
叩き方が悪いってばーんと金槌を
投げられたんですよ。

父の存在

そういう親父だったから、
俺が今でも鍛冶屋できとるんだかなと
思うんですけどね。
何でも親父から習うわけですからね、
口答えはできないです。
昔からこの辺りで四十二歳になると
一人前って言われたけどね、
それまで晩酌は許されんかったね。
四十二歳の祝が済んでからはね、
親父が、お前も一人前っちゅうこと
になったんだから、今晩からは晩酌
しても良いって。で、母さんに杯って
言ってコップ持ってこさせて、
一緒に飲んだんですよ。
親父が死ぬまでずっと一緒にやっと
たんだけどね、何でもできるような
気持ちを持ってたんだけどね、
なかなか何でもできない(笑)。


市に出る

鍛冶屋は夏でもやっています。
夏になると海が好きなもんだから、
サザエとったり。
今日はイカをとってきた。
昔は仕事の忙しい時は朝三時に起きて、
炭を細かく割って火をおこしててね。
その間に親父が起きてくるわけですよ。
それでご飯前に仕事を始めるの。
近所の人迷惑だったと思うけど。
昔はそのくらいやっても仕事があったんで
忙しかった。今はイカとりに行って
遊んでくるぐらいだから(笑)
それでも晩は六時頃まで毎日仕事
しています。



今は本当に売れなくなっとる。
でも佐和田と相川の市には出てる。
佐和田のホームセンターでも売ってます。
去年店長が来てね、どうでも鎌と鉈と
鍬を出してくれと頼まれてね、ねまっとっ
て動かんのね(笑)。
で、鍬と鉈だけ卸してます。
やっぱり安いのがあるからそんなに
売れないけど、それでも名前知っとる
人は買ってくれますよね。


鍛冶屋の未来

鉄が段々形になっていくのは面白い
ですよ。でも何でも食うためにやら
んならんと思ってやっとるもんで。
本当はね、あったんですよ、やめよう
と思ったこと。親父がいなくなって
やっぱり色々と仕事の面
でありましたね。そしたら母さんにね、
せっかく親から仕込んでもろたのに
やめてどうするって言われてね。
ま、その時は嫌々ながらもやって
たんだけど、あの時やめてしまわん
でよかったなぁと思う。



  

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