貉を治療した医者(相川町二つ岩)


享保の頃、相川町柴町に窪田松慶という外科の医者がいた。
ある冬近い亥の刻(夜の十時)ころ、これから寝ようとしている時「窪田松慶様のお宅はこちらでしょか」と問う者があった。答えると「実は急病人ができたので、お迎えにまいりました」という。松慶は「それでは、金瘡(きんそう=槍や刀など金属による傷)などであるか」と聞くと「はい、手負人であります」と答える。
松慶は急いで迎えの駕篭に乗ると、暗い夜を飛ぶように走り、一里(約40キロ)ばかりも来た。すると、向こうに両方に開く大きな門が見えた。
これはどこだろう、こんな門のある家は、相川町の近在にはないはずだとふしぎに思った。そして、式台のところまで行くと「窪田松慶様、おいで」という声がした。すると羽織袴の四、五人が出迎える。駕篭からおりて家に入ると、この世のものとは思われないほどのりっぱな床飾りや武具などが飾ってある。
客間へ通ると、二十畳敷もある広さで、そこには、炭火を小山のようにおこし、火鉢や煙草盆をならべて、待っているようすであった。
そのうち、羽織袴に、長い脇差を差した五十歳あまりの人が出て来て「これは、これは、松慶様、遠方よりよくおいで下さいました」と丁寧な挨拶をした。そして、お茶やお菓子を出したが、そのお茶の香は、田舎には珍しいものであった。
二、三椀いただいてから「ご病人はどちらですか」と問うと「しばらくお待ちください。主人へ申し上げますから」といって奥へ入った。しばらくしてから七十歳あまりの老人が白小袖に十徳を着て出て来て「松慶様、これは、これは恐れ入りました。さて愚老の末子が怪我をいたしました。どうも金瘡のようですが、ご診察を願いたい」と、いうことであった。
そして案内されるまま奥の部屋に入ると、そこには金銀の屏風をまわし、病人と思われる十三、四歳くらいの美少年が、蒲団を高く積み重ね、その上に鉢巻をし、白い小袖を着て脇息によりかかって顔をしかめていた。
傍らに寄って疵(きず)を見ると、切先で突いたようなところが二か所あった。
松慶は「これは、たいしたことはありませんから、ご心配なさらないようにして下さい。血が止まると疵は小さくなります。この血止め薬をお用いになって、その上へ私の調合した膏薬(こうやく)をおはり下されば、痛みも止まり、きっと全快いたします」というと、老人をはじめ一座の者は大よろこびであった。そして大変なご馳走になった。
それから駕篭で自分の家の門前に着いた。家に入ってから駕篭の衆へお茶でもあげたいと思って出てみると、もう人影がない。召使の男に追いかけて、主人の名前を聞くように言ったが、まったくなんの手がかりもなかった。
その夜、下戸番所の寺田弥三郎という侍が、番所から自宅の帰り道、暮六つ(夜六時)この裏通りの小路にかかると、暗い夜で方向がわからなくなった。どちらへ行っても行きづまり、家へ帰ることができなかった。これはたぶん貉のしわざであろうと、刀を抜いて切り払うと、手ごたえがあった。それから、明るくなって、どちらへも自由に行けるようになった。
大津屋小右衛門という問屋の門口の灯りで、刀をすかしてみると、切先に血がついていた。この弥三郎が、切りつけたのは、窪田松慶の治療に行った二つ岩の団三郎の貉であろうということであった。 (怪談藻塩草)

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