安寿塚
(相川町南片辺)


相川町から海府線で、鹿野浦トンネルを出て、海岸側の田圃のなかに、小さい祠が見える。これを安寿塚とよんでいる。
以前は、トンネルの北口の「中の川」の上流に、安寿の墓としてあったものを、ここに移したのである。
安寿姫と厨子王丸(ずしおうまる)との物語については、森鷗外の名作「山椒太夫」で、ひろく知られているが、この地方の古老たちの語る伝説は、またちがったものとなっている。
奥州五十四都の太守、岩城判官正氏は、悪者の戯言のため領地を取られ、築紫の国(福岡県)へ流された。
その子安寿姫と厨子王丸は、父を慕って母とともに、築紫の国へ行く途中、越後の直江津で、山岡太夫のため人買船に売られた。
母は佐渡二郎の手に渡って、佐渡の島の、この鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。
 安寿恋しや ほうやらほう
 厨子王恋しや ほうやらほうと、毎日唄いながら、粟(あわ)の番の鳥追いをしていた。
安寿姫と厨子王丸は、母と別れ丹波の国(京都府)の由良の港の強欲な山椒太夫の手に渡り、これもまた、きびしく使われ泣いて暮らしていた。
のち、築紫の国に流されていた父は、死んでからその罪は嘘であったことがわかり、厨子王丸は父のあとをついで奥州五十四都の太守となった。
そして、安寿姫とともに、母を迎えるため佐渡へ渡って来た。
太守の格式をもつ厨子王丸とは別れて、安寿姫は下男一人を連れて、ようやく鹿野浦にいる母を探し出した。しかし、盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿姫があらわれても嘘だと言って信じなかった。そして持っている杖で、打って打って、とうとう殺してしまった。
あとで、母は下男からこのことを聞き、涙ながらに安寿姫のなきがらをこの「中の川」の上流に埋めたのが、この墓である。
それから、この「中の川」は、安寿姫の涙のために、毒が流れるようになった。
古い民謡に
  片辺・鹿野浦 中の水は飲むな
  毒が流れる 日に三度
と、唄われている。
それから、下男は母を背負って相川町達者まで来ると、厨子王丸の一行と出逢った。ここを「行きあい坂」とよんでいる。
また、そこの清水で、母が眼を洗ったら、眼が開いたので今も「眼明き地蔵」が残っている。
その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。
これが、現在の北片辺村であるという。
また、母を虐待した佐渡二郎の子孫はみんな死に絶え、その家のあったところも荒れはてて、なにを蒔いても生えないといわれている。

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