加賀早稲・土佐三助
(畑野町多田)


むかし、土佐国(高知県)山方に永楽又兵衛とういう百姓がいて、妻と別れ、後妻を迎えた。前の妻には三助という男の子がいた。
継母は、この三助をいじめ、とうとう佐渡の島へ流した。
これを聞いた実母は、たいへん悲しみ、籾(もみ)三升(約4.5g)に鋤(すき)鍬(くわ)などを添えて見送った。
そして、着いたのがこの松ヶ崎であった。
また、そのころ能登国(石川県)から一人の女が、棹崎(現在の小木町沢崎)にながされて来ていた。
まもなく、この二人は、めぐり逢って夫婦となり、稲作りをした。
女の植えた稲を「加賀早稲(かがわせ)」といい、男の植えたものを「土佐三助」といい、佐渡の稲の最初である。(佐渡風土記)
この二人がめぐり逢うたところから、「多田(おおた)」というようになった。
また、能登から来た女は、お菊といい、加賀国の生まれであったので稲の名を「加賀早稲」と名ずけた。この二人は、佐渡に最初に住んだ人でもあるといわれている。

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