坑道探検

水替人足と無宿人



産出量が減り始めた江戸中期頃より、
富鉱帯(フコウタイ)をもとめて急速に抗内が深くなってゆくと、
水上輪の使用もままならなくなり、
手繰水替による人海戦術が見直された。
水替人足の労働時間は、
隔日交替の一昼夜勤務ときつかったが、
賃金は3百文とよかった。
しかし、水替人足は不足し、
幕府は、近隣の農村に人足割当てを行う一方、
安い賃金で大量の人を確保する方針を打ち出した。
安永7年(1778)から、
幕末までの百年間に、
主に江戸や大阪などの都市から約2000人の無宿人が送られてきた。
第一弾は60人程度であったが、
年平均20人程で、
総水替人足からすると多い数ではなかった。
無宿人の移送は、都市の治安維持政策としても重要な意味を持っていた。
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