金鉱石が小判になるまで

町の成立と賑わい 





相川は金銀山が発見される以前、
羽田村という小さな村であった。
慶長8年(1603)以降、
町は大きくなりはじめ、
台地上には、奉行所、
鉱山関係者の家々、
海岸沿いには、商人や職人達の家が建ち並んだ。
人口は急激に増加し、
最盛期には5万人を擁する町となったという。
これらの人々の日常品の需要を満たし、
鉱山入用資材供給のため、
米をはじめ多くの物資が船で運ばれてきた。
また、各地から様々な技術を持った人が職を求めて集まってきた。
職種は多岐にわたり、
鍛冶屋、番匠、石工、左官、桶大工、提灯屋、桐湯屋、按摩取座頭(アンマトリザトウ)、
髪結などの職人や小売商で活状を帯びていた。

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