情報 2008年11月25日

日本に近代的なビールの作り方の技術を持ち帰り、歴史に名を刻んだ生田秀

近代的ビール作りには佐渡人の根性と郷土愛があった。

ビールが人類の歴史に記録されるようになってから5千年以上 ・・・
日本にビールが持ち込まれたのは、暴れん坊将軍でお馴染みの8代将軍 徳川吉宗の時代、
西欧文化の唯一の窓口だったオランダから当時盛んだった蘭学により紹介され、
杉田玄白ら蘭学者は試飲や試作をしたといわれます。
一般の人々に広まったのは明治3年、米国籍でノルウェー人のコープランド氏が醸造したビールから。
国産ビール第1号は明治21年で横浜で販売されました。



『波に朝日』をかたどった、アサヒビール発売当時のラベル

佐渡では、旧真野町出身の生田秀(いくたひいず)により1892年(明治25年)頃からビールが販売され
26年頃旧真野町周辺では、日本国内でも先駆けてビールを楽しんだことが、麦酒株式会社 支配人(生田秀)
と販売人(山本植蔵)の間で交わされた山本藤九郎家麦酒取引契約書から伺い知る事ができます。
※酒屋を営んでいた妻方の山本家と取引契約書を交わす事となる。

日本近代ビール史上に名を残した
    「邦人初のブラウマイスター 生田秀(いくたひいず)の歩んだ道




大阪麦酒会社支配人兼技術長「生田秀」

1857(安政4)年  佐渡国雑太郡新町村(現佐渡市/真野町)に父生田三折の長男として生まれる
1873(明治6)年  16歳で上京。東京下谷の司馬凌海の「春風社」に寄宿、ドイツ語を学び、
            昼は2年制の東京外国語学校でもドイツ語を学ぶ
1888(明治21)年 東京外国語学校卒業後、内務省衛生局で試薬技師見習いとして勤務同年、
            31歳で大阪麦酒会社(現アサヒビール株式会社)設立委員に参画。
            その後、単身ドイツに渡り醸造学を学ぶ
1889(明治22)年 32歳で帰国。大阪麦酒会社の工場用地を買収
1890(明治23)年 吹田村醸造所建設始まる
1891(明治24)年 醸造所完成 運転開始
1892(明治25)年 アサヒビール初出荷
1906(明治39)年 死去(享年50歳)



契約書一部(現代文に直す)

今般、大阪府島下郡吹田村 大阪麦酒株式会社醸造旭ビールの売買取引に関し該会社支配人生田秀
と佐渡国雑太郡新町山本植蔵との間において特別契約をする。

第1条 山本植蔵は佐渡新町においてこの契約の売買取引をするにあたって大阪麦酒会社特約者と称し、
     その店舗を特約店と称する。
第2条 旭ビールは大瓶4ダース即ち48本入を1箱とし、1箱の売価を金7円80銭(1本16銭25厘)以上とし、
     小瓶8ダース即ち96本1箱を金9円30銭の割をもって売渡し、内金(手数料)10銭の割引をする。
     故に山本植蔵は大瓶1箱につき金7円70銭、小瓶1箱につき金9円20銭を会社に支払うものとする。
第7条 物品受渡は、大阪市回送店までを会社の負担とし、その後は会社の責任はないものとする。

明治26年4月  日


ビール大国のドイツ、そして日本でビールが飲み始められると同時期に、
佐渡の旧真野町でビールは、はたして飲まれていたのだろうか?



契約書第7条に見られるように大阪からの運賃の負担は、ほとんどが山本家と記載されている。
当時は、盛んだった北前船も役目を終えていた時代、陸路である鉄道?そして船?荷車?
とリレーしながら佐渡まで運ばれたビールはかなりの運賃がかかったことが予想されます。
はたして佐渡で、このような高価なビールを飲んでいたのだろうか?

当時、職工など日給者は賃金21銭(明治27年)の時代である。
一般庶民は、料理屋などで、コップ売りのビールに舌づつみを打つのがせいぜいのところ
当時の大量販売は、主に飲料店に頼らざるを得ず、酒飯店ルートが開かれるのには、
20世紀、大正期をまたなければならなかった。
ビール販売の全責任をもっていた生田秀が、もしかしたら山本家を援助していたのではないか?
それは、生田秀が作ったビールを故郷の人、親戚や友人に飲んでもらいたい。という
強い愛郷心のあらわれではないか?と当時の出来事に思いを馳せます。
島外で活躍し、佐渡を離れても佐渡を盛り立てようとしたエネルギッシュな人物だった生田秀。
そんな熱意の人も享年50歳で逝去しました。遺骨を大阪の地以外に佐渡の旧真野町に
分骨した事実からも故郷への熱い思いが感じられます。





世界初の「辛口」ビール
「アサヒスーパードライ」
昭和62年3月販売


参   考  /  日本近代ビールの父 生田秀の歩んだ道  山本 修巳
写真提供  /  アサヒビール
編   集  /  西野春彦


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