情報 2009年1月25日 エスライフ 09年2・3月号 |
彩りの島 〜四季折々に咲く花を想う〜 |
大佐渡・小佐渡の山に雪がかかり冬の景色が島をつつんでいる。 彩りをなくしたかのような島の風景の中に冬の厳しさをも受けいれるが如く しっとりと咲く花がある。「椿」である。 島の多くの椿はヤブツバキ。寒中も咲くところから寒椿とも呼ばれる。 椿の咲き出しは十一月からだが厳しい寒さの中で耐え忍ぶように咲く姿は何ともけなげで愛らしい。 また椿の葉は冬でも艶やかな緑であり生命の漲りを感じる。 厳冬の中に咲く椿が一番美しく感じられるが三月頃春を告げるかのように咲き誇る姿もまたいい。 島では南佐渡・小木半島(城山公園・南仙峡)に椿の並木道ができるほど沢山の花が咲き、 四月までに満開となる。 草木も枯々になり冬眠となる頃から目覚めの春までを花期とする椿。 厳しさを乗り越え咲ききった後には実をつけ、その実からは油が採れる その昔、佐渡はツバキ油の産地でもあった。 近年、自然派志向の高まりのもと、ツバキ油の優れた成分や特質が再び注目を 集めており食用油をはじめ石けん、スキンケア化粧品の基剤など様々な分野に 用途をひろげながら脚光を浴びてきている。 椿は昔から日本人に愛されてきた花である。 何故愛されてきたか… その姿は、日本人の気質ともいえる本来の姿と重なって見えるからではないだろうか? 「献身」「忍耐」「謙虚」この言葉が椿の姿に見えはしないだろうか…。 この言葉こそ昔の日本人の姿をあらわしているように思う。 現代の日本人の姿はどうであろうか? この椿の花をどう感じ見るか、「椿の島」の人々に今こそ問いたい。 〜 順徳さんの愛した花 〜 島に春風が吹きはじめたら、訪れたいところがある。 そこに咲く花を眺めながら、歴史に残る一代の皇帝を想い、偲びたいからだ。 1221年承久の乱に敗れ佐渡へ配流となった順徳上皇、その人である。 24歳の時、順徳さんは佐渡へお着きになられた。 この時を境にして父・兄弟と生き別れ、崩御される迄の22年間を島でお暮らしになった。 その暮らしぶりがどのようなものであったか… 正確な記録は残されてはいない。 いくつかの伝説と生活の足跡から推測されたものが伝えられているだけである。 その中に順徳さんお手植とされる樹木がある。 訪れたいところ、とはまさにこの樹木が植えられている場所である。 真野宮から御陵へ登る道中にある「石抱きの梅」がその一つだ。根に大きな石を 抱いているのでこう呼ばれている。 両津梅津の真法院境内にある老梅もお手植のものとされ密生した苔の中に 花を咲かせるところから「苔梅」といわている。 また、小木・海潮寺にある二株の桜は順徳さんが京の都より色々の樹木を移し植えられたものの 一つとされ「御所桜」と呼ばれている。 この桜は、ひとつの枝から八重と一重の花が咲き香りの濃い珍しい匂い桜で国の天然記念物である。 いづれの樹木もかなりの樹齢ではあるが島の人により大事に守られ毎年春には美しく咲き誇る。 樹木がお好きだったという順徳さん。 なかでも梅と桜を、ことのほか愛されたという。 かつて住んだ都にも春になると沢山咲いていたであろう梅と桜。 忘れたくとも忘れられぬ都…。 わびしい島の暮らしの中、春に咲き出すこの花の華やかな時だけは都を想い 郷愁を誘ったのではないだろうか…。 在島の間、仏の勤行と歌道に精進され、都へ帰られる望みを最後まであきらめなかったと いうがその望みをも絶たれ、ついに都へ帰ることなく1242年お姿を御隠しになられた。 46歳であった。 順徳さんの愛した梅と桜は今年も変わることなく美しく咲き誇ることだろう。 心静かにその時を待ちたい。 特集TOP エスライフTOP |